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いつでも自分らしく歩き続ける男たちを紹介するBlue.誌面&ウェブ連動企画「KEEP WALKING」。第4回目は映像作家の清野正孝さん。これまでの歩みとこれから、自身の創作について尋ねると、ワクワクするようなストーリーをたくさん聞かせてくれました。
──映像を学ぶためにアメリカの学校に通っていたと伺いました。
K 高校を出てからロスに留学しました。僕はサーフィンより先に映像の世界から入っていて、もともとはハリウッドみたいないわゆる一般的な映画監督になりたかったんです。だったら日本の大学へ行くよりも、ハリウッドに行っちゃった方が早いんじゃないかと思って。シンプルじゃないですか。飛び級みたいな感じでいいんじゃないかな、と。
──思い切りがいいですね!
K それで向こうの大学で映画の勉強をしたんですよ。そしたらハンティントンでサーフィンと出会っちゃって。
──どんなきっかけで、サーフィンと映像制作がリンクしたのですか?
K 学校が休みだったある日、サーフィンを始めてから一年越しでついに良い波に乗れたんです。場所はカリフォルニアのトパンガでした。その瞬間、生まれて初めて何かにハマった。映画をやりたくてアメリカに行ってはいたものの、心のどこかで遊び感覚だったんですよ。「映画監督になれるとはかぎらないし、アメリカで勉強すれば箔がつくから、就職も楽なんじゃないかな」というくらいの気持ちで、とても本気とは言えませんでした。でもサーフィンは本気でこれだと思えた。その時に「あ、俺はサーフィンを撮ろう」と決めたんです。
──当時、どんなサーフィンの映像が好きでしたか?
K テイラー・スティールの作品やトーマス・キャンベルの『スプラウト』、ジャック・ジョンソンが作った『シッカー・ザン・ウォーター』なんかをめちゃくちゃかっこいいと思いながら毎日のように観てました。そして、僕もいつかこういうサーフィンを撮ろうと思ったところから目標が定まってきたんですよね。サーフィンをテーマに撮っていく道はないのかなと考え始めました。
──サーフィンを撮るといっても、生業にするのは大変そうですよね。
K 約4年ほどアメリカにいたんですが、日本に帰ってきてまずはテレビドラマを制作する会社に就職したんです。だけどサーフィンもできなくなっちゃったし、正直楽しくなくて一年くらいで辞めました。ドロップアウトですよね。その後、実家のある埼玉から湘南に移住しました。仕事もないし何か撮れないかと思っていたら、運よく近江俊哉さん(元WSLジャパン・リージョナルマネージャー)と知り合い、大会撮影のお仕事をいただけました。
──すごい! 早々に独立したのですね。
K なんとかそっちの道に行こうと、無理やり自分を持っていったんですよ。あとはBlue.に企画を持ち込んだりもしました。そうしていくうちに少しずつサーフィンの撮影が仕事になってきた。でもそれだけは食べていけないから、コマーシャルの仕事もやりながら生活をしていたんです。今もそうですけどね。
──サーフィンの撮影が仕事になっていったとはいえ、『WAKITA PEAK』のような映画を作るのはハードルが高かったのでは?
K そうですね。でも、映画を作りたくてアメリカへ渡った気持ちは嘘ではないから、やっぱりサーフィンでも映画を作りたかったんですよ。ライディングのクリップのようなものじゃなくて。だからずっと探していたんです、被写体を。誰を撮れば「サーフィンとはなんぞや?」を描けるかな、と思って。でも、アメリカ時代はまだサーフィンを始めて2~3年だから、まだまだサーフィンに対する経験と認識が浅いじゃないですか。だからWSLの大会を撮影したり、Blue.の企画に関わることが、サーフィンへの見識を深めるいい時間になったんです。コンペティションも見られるし、カルチャーも見られた。いろんな側面からサーフィンを眺められたから「何がいちばんサーフィンなんだ?」みたいなことをフラットに、でも深く考えられたんですよね。
──そうして脇田貴之さんに行き着いたという。
K コンペティションだけでもなく、カルチャーだけでもなく、すべてが凝縮された存在と考えたときに、脇田さんというサーファーをあらためてすごいと思ったんです。パイプラインといういちばん原始的な……要するに技じゃないんですよね、チューブライディングは。精神を含めて波と一体化する行為そのものじゃないですか。高い技術はもちろん必要なんですけど、それを誇示する世界とは明らかに違う。ハワイはサーフィンの原点だし、その聖地であるパイプラインに生涯を捧げる脇田さんは、まさに究極そのものなんだろうと思ったんです。
──脇田さんとはお知り合いだったんですか?
K WSLで脇田さんと一緒に仕事をする機会があったんです。湘南オープンなどで僕がカメラを回して、脇田さんがMCを担当するという期間が一年間くらいありました。そのときは寝床も一緒だったり、飯が一緒だったりという間柄になって。脇田さんからしたら「カメラマンの清野くんね」くらいの認識だろうけど、僕からすると「パイプラインの脇田さんだ!」と思いながら関わらせてもらっていました。
──どのように映画出演のオファーをしたんですか?
K 湘南オープンの合間に打診したんです。「お疲れ様でした。脇田さん、じつは僕『サーフィンとは?』というテーマで映画を撮りたくて。ドキュメンタリーなんですが、脇田さんを撮らせてもらえませんか?」って、大会の仕事が終わった後に伝えたんです。忘れもしない、地下道の前ですよ。そうしたらサングラス姿の脇田さんが「清野くん。ちょっとないですね」って。
──いきなり却下!
K 「えー、ダメなの」って(苦笑)。「ようやく出会えた!」とこっちは勝手に盛り上がっていて、さすがに即却下されるとは思っていなかったから「なんでですか?」と尋ねたら、「ドキュメンタリーって3〜4人くらいで僕にずっと付いてくるんでしょ? 目立ちたくないんですよ」と。脇田さんらしいなぁ、これはだめかなと思って一度はあきらめかけたんですが、やっぱりこの人をおいて他にはいないと考え直して、しばらく後にもう一度電話でオファーしました。
「僕ひとりで行きます、脇田さん。それじゃダメですか?」「大きいカメラとかも嫌ですよ、僕(脇田さん)」「じゃあ、小さいカメラにします」といった感じで、ぜんぶに食らいついていったんですよね。そしたら「家族会議します」と脇田さんが話を持ち帰ってくれました。そして一週間後くらいに電話が掛かってきて、「ダメと言ったら撮影をやめてくださいよ。それでいいんだったら、いいですよ」と言ってくれたんです。
──よかったですね!
K 湘南オープンは夏。脇田さんにオッケーをもらったのは11月です。「嬉しいです! 脇田さん、いつからハワイへ行くんですか?」と聞いたら「今月末に行きます」とのこと。それで僕も二週間くらいで準備してチケットをとってハワイ行きですよ。脇田さんが行くなら僕も行くと、すぐに追いかけたんです。
──すごい行動力ですね。
K 嬉しい反面、「うわっ決まっちゃった。どうしよう」とも思いました。じつは当時、うちの嫁さんが2人目の子を妊娠中だったんです。あと2~3ヶ月で生まれるという時期で。ましてや上の子が当時3歳と小さくて、嫁さんも仕事をしながらだったので、とにかく大変な状況ですよ。この状況でハワイへ行っていいのかと、葛藤も正直ありました。
──自分で蒔いた種ながら……。でも、攻めたんですね。
K 脇田さんに打診した当時、胸の内では子どもも生まれるし、撮影は来年の冬がいいかなと考えていました。でも、いざ脇田さんから「ハワイへ行く」という言葉を聞いて、来年まで引っ張ったらこの流れは消えてしまうと感じたんですよね。今しかないと。チャンスって苦しい時に来る。そこで掴まないとダメなんだろうなと思って。葛藤したし、実際にすごく苦労しました。
──どれくらいの期間ハワイに行ったんですか?
K 最初は一ヶ月という話だったのが、終わってみれば三ヶ月になっていました。
──清野さんもすごいけど、奥さまがすごいですね!
K 本当ですよね。子どもは僕が日本に帰った後、5月に無事に生まれました。コアなサーファーと今までほとんど接してなかった自分が、そんな無茶な行動をとるなんて不思議ですよね。なんていうか、いつもそこに行き着かされるんですよ。「自分が描きたかったのはこれだったのか」と、実現した後に知るというか。
──作品が完成して、映画館で上映したときの満足感は大きかったのでは?
K いまだに僕の中で「サーフィンとはこれだ」という究極は『WAKITA PEAK』です。僕自身、同じテーマでこの作品を超えることは今後できないだろうと思っていて。だから次に作るのは、究極のサーフィンとは異なる視点のテーマですね。もちろんサーフィンにまつわることは無限にずっと作り続けますけど。
──現在、制作中の映像はなんですか?
K じつはいま、水俣病を題材に撮影を続けています。
──清野さんの発案ですか?
K 今のところ僕しか動いてないですね。自腹で撮り続けています。サーファーが主人公ではないけど、サーファーとしての目線は活きています。福島第一原子力発電所の処理水を海に流すことが決定してしまう状況下で「どうしたらこれを止められる?」というのもきっかけのひとつでした。サーファーとして海に放射能を撒くなんて言語道断だけど、それと同じくらい風評被害も怖いぞ、と考えさせられる機会があったんです。それが、撮影のために訪ねた熊本県の水俣市でした。
──サーフィンとは関係なく?
K はい。友達のツリーハウス作りの撮影でした。現地でいろんな人と知り合うなかで「水俣病というのが過去にあったから、いまだに水俣のお茶は売れないんだよね」という話を聞き、風評って本当に消えないんだなと知りました。そして、福島も同じ道をたどることになると思ったんです。だったら水俣病をテーマに映画を作って、今の美しい水俣を見せることで風評被害を壊せるんじゃないか、という考えのもと制作をスタートしました。少しでも「水俣のご飯おいしそう」とか「お茶おいしそう」って思ってくれるものを作りたいと思ってやっています。だからサーファーからの目線なんです。環境問題に対する。
──水俣でサーフィンはできるんですか?
K 海はあります。ものすごくきれいな。内海なので波は立ちませんが、SUPを楽しんでいる人はいますよ。そんな水俣の海の美しさが、物語とともに見る人の心に焼きつく映像を撮りたいなと思っています。
──キープ・ウォーキングしていますね。人との関わりも多いだけに、お酒も好きですか?
K 大好きです。毎日飲んでますね。休肝日がなかった年もあるぐらい……。40歳を超えた今は飲まない日も多少つくってますけど、僕にとってお酒は大切なパートナーですね。
──どんなお酒が好きですか?
K ここに数年はハイボールです。始まりはダイエットの観点から糖質を気にして。その前まではビール、ワイン、日本酒が好きでした。たまたま2ヶ月くらい前からジョニーウォーカーを飲み始めたんですよ。赤ラベルのスモーキーな香りが好きです。少しクセがあるお酒が好きなんですよ。
──本当にお酒が大好きなんですね。
K なんでお酒が好きなんだろう? と考えたことがあって。僕にとってサーフィンはリフレッシュ。作業が煮詰まったら海に行くことはあるけど、サーフィン中にいいアイデアが浮かぶかと言えば、そうではない。無心になるじゃないですか。それまでの自分が入れ替わるようなリフレッシュなんですよ、サーフィンって。でも、お酒はクリエイティブなものを生み出すきっかけにもなるんですよね。職業柄、仕事にお酒を持ち込むことも許されるので、編集していてアイディアが欲しいときなどは、飲みながら作業することもあります。
──自分ひとりの世界に入り込むことも大切なお仕事ですもんね。
K 最近ピアノを始めたんですけど、飲んでいるときに弾くのも大好きなんですよ。心地よく自分に入っていける感じが好きなんです。
──酔いしれて(笑)
K 僕にとって、お酒はクリエイティブに合うんでしょうね。サーフィンとお酒、両方が好きでよかったです。
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presented by Johnnie Walker
photo◎Junji Kumano text◎Jun Takahashi
撮影協力:月波
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